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琵琶湖のほとり、安曇川からかなり山に入った所、朽木に興聖寺があります。かって小説「淡海乃海 水面が揺れる時~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~」と言う物語を読み、面白いので10数冊夢中で読んだことがありました。現世から転生して朽木基綱となった主人公が二歳で禄高8000石の朽木家の当主となり、その後一代で全国統一を果たしていくと言う物語でした。フィクションとは知りながら、それ以来一度は朽木の里に行きたいと思っていました。
上の写真は興聖寺の本堂です。司馬遼太郎の「街道をゆく」では「かっての朽木氏の檀那寺で、むかしは淡海における曹洞宗の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裏それに鐘楼といったものがおもな建物であるにすぎない。」と書かれている。寺のパンフレットによると「鎌倉時代の嘉禎三年近江の守護佐々木信綱は曹洞宗開祖道元禅師を訪ね、承久の乱にて戦死した一族の供養をお願いされた。時に禅師が都より越前へ向かわれる際、当地の山谷が伏見深草の興聖寺に似て絶景だと喜ばれ、佐々木家の菩提寺として高厳山興聖寺という山寺号推奨され建立を奨められ、仁治元年に七堂伽藍が完成、開基佐々木信綱は宇多天皇の直系で晩年当地に入り隠住、その後信綱の曽孫にふたる義綱より朽木氏に改め廃藩置県まで続いた。
一方、室町時代の享禄三年十二代将軍足利義晴は三好・松永の乱を避け朽木稙綱を頼ってこの地に三年程滞在された。そのとき佐々木一族や京極高秀、浅井亮政、朝倉孝景の協力で将軍を慰めるため、管領細川高国に依頼し、京都銀閣寺の庭園をもとに旧秀隣寺庭園を作庭献上した。
また十三代将軍足利義輝は家臣細川藤孝(幽斎)を従え六年半ほど滞在された。その折藤孝は熊川城主の娘麝香姫を迎え二代目忠興が誕生、後に細川忠興は三斎と称し千利休をこの庭園に案内したのである。
興聖寺にあった資料をスマホで取らせて頂きましたので下に載せておきます。
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yasuogino
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