産田神社

Wigipediaによると

「産田」は産所の意であり、『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊奘冉尊(いざなみのみこと)が火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んだ時に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬されたと記されており、産田の名称は、伊奘冉尊の出産した場所によるといわれる。また、付近に位置する花の窟神社が、亡くなった伊奘冉尊の墓所であるとされる

創立は、崇神天皇の時代とも伝えられるが、天正年間(15731592年)に近隣の安楽寺が兵火にかかった際、延焼により焼失したため不詳である。古くは1132年長承元年)、崇徳天皇が産田神社へ行幸したことが『熊野年代記』に記される。神社の歴史を示すものとしては、1521年永正18年霜月14日)の棟札が認められる

1600年慶長5年)に豊臣秀頼より二王門が寄進されている。また、1732年享保17年)には紀州藩より灯籠が寄付され、社殿が修復された

左の写真の中のお膳はホウハンと呼ばれるもので神事の最後、直会(なおらい)の際に、汁かけ米飯、骨付きさんま寿司、赤和え(アカイ〈生魚の唐辛子和え〉)、神酒からなる「奉飯」と呼ばれる膳が振舞われるそうです。産田神社がサンマ寿司発祥の地と言われる所以です。

この写真は本殿ですが、古代の祭祀の場である神籬(ひもろぎ)の跡が本殿の両側にあることから、かってはこの本殿が無くその神籬が祭祀の場であったと思われる。

神籬とは古来、日本人は自然のなどに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祀るのではなく、祭りの時はその時々に神を招いて執り行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、古くはその場所が神籬と呼ばれた。次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになったが、古い形の神社は、建物の中に玉垣を設けて常盤木を立てて神の宿る所とし、祭るものであった。後にはこの常盤木を神籬と呼ぶようになった。(Wilipediaより)


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